今回はいつも難しいことばかり書いているのでもう少し私のことについて語ろうかなと。誰得ってな感じですけどね。知らない人の話なんてだれも聞かないかなということでいきます。
私が看護師になるのは小さいころから決まっていたような感じがある人生でした。私の波瀾万丈な人生をどうぞ!!そしたら、今回は息抜きの回ということでいってみよう!!
既往歴
既往歴は自分の今までの病気の歴史的なもの
- 0歳:心室心房中隔欠損症 肺高血圧
- 0歳:心タンポナーデ 心肺停止
- 17歳:側彎症OP
- 19歳:右腓骨遠位端骨折OP
- 20歳:親知らず 4本抜歯OP
- 21歳:両外反母趾 OP
- 31歳:側彎症OP後の一部抜釘
0歳ころ
生まれてすぐは親は3人目ということですぐになにかおかしいと気が付いたとのこと。そして、町医者に言っても分かってもらえず、5か月ほど経って大きい病院に受診することになって、心室心房中隔欠損症(簡単にいうと生まれてすぐはみんな空いている心臓の穴がふさがってなかった病気)と判明し、手術を行いました。親の観察力すごいなって思う一面。
術後入院中、異変が起きた。心タンポナーデになった!!医療従事者ならこのやばいことがわかるはず。心タンポナーデは心臓の周りに血液が貯まり、心臓が動けなくなる病気。心臓が動かないってことはやばい状態。それいち早く気づいたのは、なんと母親!!母親が看護師でよかった。ナースコール押して心臓マッサージをしながら看護師に報告したらしい。その後、血液を抜いて、復活!!胸のところにドレナージの穴の後がまだある。ちなみに心臓の手術痕も分かる。
この話を聞いてて、看護師でも人の命を救えるんだと学んだ。
高校生
中学生のころから側弯症(背骨が横に曲がっている)と言われてて、手術せず経過みていたけど、さすがに曲がりが悪くなってきて、将来のことを考えて高校生のときにOPへ。
背骨のことを脊椎っていうんだけど、脊椎のOPってめっちゃ時間かかるんだよ。どのくらいかかったと思う?なんと18時間!!朝9時にOP室に入室してから起きたのは夜中の3時。人ってそんなに長く寝れるんだね。
帰室してから喉がカラカラ。全身麻酔だからすぐに水分が取れないからめっちゃ苦痛な時間だった。親がそばにいたから「水をくれ」って言ったら「手を握ってほしい?」って聞き返されて、突っ込んだら背中が痛いこと。
手術のときうつ伏せの状態でOPをしていたから顔がむくんで目が開かないくらいパンパン。テレビも見れない、自分で寝返りもできなくて、ごはんも食べれない状態が数日続いて最悪でもう手術したくないって思ったな。
高校生のときにこういう経験したからやっぱり看護師になるため進路は看護系に行くかと思いきや、やりたいことがあったからそのため看護とは関係ない大学へ進学!!
大学生
大学生のときはなんと4回も全身麻酔でOP!!
健全な男ではないな。
一回目はサッカーで遊んでいて転倒。右足関節の骨折。はじめての骨折。めっちゃ痛かったな。そしてOPへ。
二回目は親知らずを全身麻酔で4本同時OP。変な方向から生えてきたから大学病院でしたほうがいいってなった。術後は顔パンパンになって、見舞いに来た友達が大爆笑だった。食事はおかゆ。ものを噛むと痛かったから仕方がない。
3回目と4回目は両方の外反母趾を左右別々にしました。外反母趾ってのは足の親指が変な方向を向いている状態。完全によくはなってないけど。
このときの看護師さんの対応がよくて、やっぱり看護師になろうと決意。
あと看護師になろうと思ったのは、大学生のときに東北地方太平洋沖地震が起きて、自分の無能さを実感することもあったな。
卒業と同時に看護学校へと入学。親は相当悲しんでいましたね。ほんとに申し訳ございません。
社会人
これはもう看護師になっているからいいかな。
高校生の時に入れていた金属が当たって痛かったから取っただけ。自分の病院以外に行くのはなんかわくわくするよね。私が看護師だからみんなフランクな感じで気楽でよかった。
まとめ
大学のときは運命がどうしても看護師にしたいんじゃないかと思うぐらい、病院に行ったな。
でも最初の母親の行動が看護師になる決め手になっているのは間違えない。
本当はいない存在だったと考えると人のためになんでもできるって気持ちになりやすい。
ほんと看護の資格を取ってよかった。生活に余裕ができたらボランティア活動をたくさんしたい。
今回はほのぼのとした私の人生を読んでいただきありがとうございました。
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